ここから本文です

現在位置は、トップページの下層の、地域・施設ガイドの下層の、町の歴史の下層の、民話・伝説などの下層の、民話・伝説(1)です。

地域・施設ガイド

民話・伝説(1)

このページを印刷する

磐井葛子の墓伝説

磐井葛子の墓伝説イメージイラスト

筑紫の国(現在の八女地方を中心に)で一大勢力を誇っていた豪族「筑紫国造磐井」(ちくしのくにのみやつこ・いわい)は継体(けいたい)天皇21年(527年)、大和王権に対して国内最大の内乱を起こします。
翌22年(528年)には、鎮圧されますが、磐井の子「葛子」は、糟屋の屯倉(みやけ)を献上し、死罪免れたと記されています。
九州各地には、「磐井伝説」や「葛子伝説」がありますが、原町区に所在する「鶴見塚古墳」(つるみづかこふん)も「葛子の墓」だと言い伝えられています。
惜しむべくは、すでに昔の姿は留めておらず、築造の時期についてもわかっていません。

坂の下地蔵尊のはなし

坂の下地蔵尊のイメージ

それは、それは、ずっと大昔のことです。長者原に非常に人望の厚かった大長者が住んでいました。
娘が三人おり、名前を「時姫」(ときひめ)・「真喜姫」(まきひめ)・「多喜姫」(たきひめ)といい、揃って気品のある美人だったそうで、ある偉い武士から縁談の申し入れがありましたが、その武士の普段の態度を知っていた父親はこの相談に応じようとしませんでした。
武士は、幾度となく訪れて申し入れますが、父親は断り続けました。まもなく真喜姫は博多の津に嫁いで行きました。
それから幾日か経過したある夜のこと、使いが来て、長者を連れ出しました。そして、夜明けになっても長者は帰って来ませんでした。母を含めて三人の女性は、不安な夜を過ごしました。
数日後の夜、けたたましく玄関を叩く音が聞こえました。三人の母娘はおびえながらひそんでいましたが、数人の武士が乱入してあっという間に三人の女性を殺害し、家に放火をして逃げていきました。
その夜中に博多の津に嫁いでいた真喜姫のもとに、使いが母君の急病の知らせを伝えました。
真喜姫は突然のことに驚き、腰元を連れて実家へ急ぎました。
やがて、舟は坂の下に着くと、あたりは一面にうす墨を流したような茂みの陰がひろがり、その中にわずかに白く、上り口の細い道が見えていました。
心急ぐままに道を登り始めたその時、突然人影が道をふさいだかと思うと、真喜姫も腰元も血潮に染まって倒れてしまいました。悪い武士のはかりごととも知らず、ただ母のことを心配しながらたどりついて、ほっとする間もなく、悲運の最期となってしまったのです。
夜が明け、村人たちは、丁ちょうにほおむって、石を建て、地蔵様としてまつりました。これが、原町区の「坂の下地蔵尊」にまつわる話で、延暦七己未天(788年)南無阿弥陀仏十月吉祥日と刻まれています。

【近隣の史跡】鶴見塚古墳、原町のお地蔵様 等

【最寄駅】JR原町駅より約0.9km[徒歩約15分]
【バス停】西鉄原町西バス停より約0.6m[徒歩約10分]
史跡から最寄の駅・バス停までの経路図(PDF形式:246KB)

原町の地蔵様のはなし

原町の地蔵のイメージ

博多の津の大火の時、家が焼け、家族も焼け死んで一人になったおじいさんが、東の方を目指して逃げ延びてきました。
どこかの家に泊めてもらいたいと次々に頼みましたが、何しろひどい姿なので、どこの家でも断られました。
仕方なく、今夜は野宿でもしようかと、一軒のあばら家の軒下にしゃがんでいました。すると、その家の若夫婦が気づいて、「どうしましたか」とたずねました。
おじいさんは、「朝から何も食べず、おなかがぺこぺこで歩くこともできないので、ここにお邪魔しています。どうか一晩置いてください。」と頼みました。
若い夫婦は、「むさ苦しい家でよかったら泊まってください。」と言いました。おじいさんは大喜びで泊めてもらうことになりました。
その晩、若い主人は、「自分は三つの時に両親と死に別れ、人様の手厚い情けによって育てられました。 ずいぶん苦労しましたが、こんなに立派に成人することができました。妻もわたしと同じ境遇の者です。」とおじいさんに話しました。

それから三日目の晩、おじいさんはこの若夫婦に、「わたしをあなた方の家族にしてください。」と手をついて頼みました。すると若夫婦は、「自分たち夫婦は人様から育てていただいたのですから、ご恩返しのためにおあずかりしましょう。」と、おじいさんを居候させてくれることになりました。
数日たったある晩のこと、おじいさんは「自分は博多の津で大きな呉服屋をしていましたが、真夜中に突然火事がおこり、命からがら日ごろから貯めていた金だけを持って一生懸命逃げてきました。 どこかで後継ぎを探そうと思っていたのですが、あなた方のような親切でやさしい方にめぐりあえてこんな嬉しいことはありません。」ときたない袋の中から大金を取り出して、「どうかおさめてください。」と、若夫婦に渡しました。若夫婦はたちまち大金持ちになりました。
おじいさんは、親切な若夫婦に可愛がられ安心したのか、気の緩みで、病床につき、まもなく黄泉の旅に発ちました。若夫婦は、大金持ちとなったのは、おじいさんのおかげであると、その霊をなぐさめるために地蔵尊を建立しました。これが原町区の地蔵様と呼ばれています。

【近隣の史跡】鶴見塚古墳、坂の下地蔵尊 等

 

【最寄駅】JR原町駅より約0.5km[徒歩約10分弱]
【バス停】西鉄原町西バス停より約0.3km[徒歩約5分]
史跡から最寄の駅・バス停までの経路図(PDF形式:246KB)

湯の窪伝説

湯の窪の様子

粕屋町江辻区の大川橋北側を「湯の窪」といいます。
いつの頃からか定かではありませんが、江辻村(現在の江辻区一帯)の住民が、まだ古屋敷に住んでいた頃、(江辻は1602年に古屋敷と呼ばれる場所から現在の場所へ移転していますので、それ以前の伝説ということになります。)この湯の窪に温泉が湧き出ました。
人々はこの湯を天の恵みとよろこんで、利用していました。
しかし、となり村の戸原村(現在の戸原区一帯)の人々がこの湯を利用し始めると、住民の間で争いが起こってしまいました。
戸原村の伊賀の薬師如来様は、これをご覧になって、たいへん悲しまれ、「さて、どうしてこの争いをおさめたらよかろう」と思いを巡らしました。
結局、「湯が出なければ、争いはおこるまい。」と、ついに意を決して湯の出を止められてしまわれました。
そして、その湯は、めぐり巡って、現在の筑紫野市の「二日市」で出るようになったと言われています。
この伝説は、伊賀の薬師如来と武蔵寺(ぶぞうじ)の薬師如来とが示し合わされて、住民の争いを治めたのであろうと言われています。

稲荷山の伝説

稲荷山の様子

現在の粕屋町花ヶ浦区から若宮区には長者原合戦(1362年)の際に懐良親王(かねよししんのう)が布陣され、この一帯の丘陵は「御所陣」(ごしょじん)などと呼ばれています。
また、別名「稲荷山」とも言われ、この稲荷山には次のような伝説が残されています。
戦いに敗れた一人の武士が落人となり、人気の少ないこの山里に隠れ住みました。隠れ人として暮らしていたある夕暮れ、一匹の大きな白狐が迷い込んできました。

何気なく「シッ」と追ってみると、腰や足に傷を負い、逃げることもできずに人なつっこく何か言いたげな様子でした。そこで主人は、かわいそうに思い、食べ物を与えました。
この狐は、傷のためにここ数日空腹の様子。喜んで食べ終わると、足をひきずりながら山の方へ帰って行きました。
こうして一週間繰り返しているうちに、傷も癒えましたが、今度は帰らなくなりました。家の床下に寝泊りし、小さな娘さんと遊び、同家の家族として可愛がられ、たきぎとりや野良仕事にもついて来るため、村の人々にも知られ、ほめられるようになりました。
そのうち、夫婦も年をとり、子どもも立派になりました。この大きな白狐は、ある日、急に病気にかかり、何も食べなくなりました。老夫婦は、夜も寝ずの看病を続けましたが、三日目の晩に死んでしまいました。老夫婦は、我が子をなくしたように悲しみ、自分の庭に丁重にまつり、供養しました。
ある晩のこと、この白狐が夢枕に立ち「自分は白狐ではなく、お稲荷様の使いとして、この世に生まれ、色々修行を積み、良い人を捜し求めているうちに、あなたに出会い、人にも及ばぬ介抱を受けました。ご恩は死んでも忘れません。今は、正一位稲荷大明神の位をいただいております。ありがとうございました。」と告げました。目が覚めてみると二人とも同じお告げを受けていたのです。
老夫婦は、早速ほこらを建て、その話を村人にも話しました。以後、このほこらにお参りする人々が後をたたなくなり、現在も多くの人たちが訪れています。そして、このほこらが現在の「吉国神社」(よしくにじんじゃ)と伝えられています。

【近隣の史跡】仲原炭鉱竪坑跡 等

 

【最寄駅】JR長者原駅より約0.7km[徒歩約10分]
【バス停】西鉄粕屋町役場前バス停より約0.6km[徒歩約10分]
史跡から最寄の駅・バス停までの経路図(PDF形式:465KB)

お問い合わせ

粕屋町立歴史資料館(粕屋フォーラム2階)
〒811-2314 福岡県糟屋郡粕屋町若宮1丁目1-1
電話:092-939-2984
FAX:092-938-0733
開庁時間:火曜日から日曜日の午前10時から午後5時まで(但し、祝日、休日の翌日、毎月最終木曜日、特別整理期間を除く)

このページを印刷する