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地域・施設ガイド

その他の区の文化財

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仲原炭鉱の竪坑跡(なかばるたんこうのたてこうあと)のイメージ

仲原炭鉱の竪坑跡(なかばるたんこうのたてこうあと)

花ヶ浦区の花ヶ浦公園に所在しています。
仲原炭こうは、明治21年(1888年)に設立された粕屋採坑会社の炭こうで、糟屋地区一帯でも古い時代から採くつが行われた炭こうです。
明治23年(1890年)には、原田三郎氏(現酒殿区出身)がこの会社を運営し、「仲原炭坑」と改めました。
大正9年(1920年)には、旧仲原村の職業従事者約2千人に対し、約3分の1にあたる707名の人々が炭こうで働いていたと記録に残されています。
昔は、この竪坑を中心とする一帯に、社宅が建ち並んでいたそうですが、現在ではレンガ造りの竪坑だけが当時のおもかげをとどめています。

【近隣の史跡】吉国神社 等

 

【最寄駅】JR長者原駅より約0.7km[徒歩約10分]
【バス停】西鉄粕屋町役場前バス停より約0.7km[徒歩約10分]
史跡からの最寄りの駅・バス停までの経路図(PDF形式:466KB)

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宝泉寺廃寺跡(ほうせんじはいじあと)のイメージ

宝泉寺廃寺跡(ほうせんじはいじあと)

甲仲原区にある清光寺北側に宝泉寺廃寺があったとされています。
宝泉寺は、浄土宗清光寺の末寺で、元朔山(くわんざん)という号を持つ寺でした。
1652年に「小西内蔵允」(こにし・くらのすけ)という人物が建立し、「一安」(いちあん)という僧に与えたと言われています。
明確なことはわかっていませんが、隣接する清光寺は1513年に「観阿弥」(かんあみ)という僧が開いたとされ、この人物は豊後国日田郡にある宝泉寺という地名の出身者で、この二つの寺が特別な関係にあるのかもしれません。

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高場順正(たかば・じゅんせい)の墓のイメージ

高場順正(たかば・じゅんせい)の墓

内橋2区には「高場順正」(たかば・じゅんせい)の墓が建てられています。
1817年の福岡藩の記録では、藩医115人中、糟屋郡内には3名の眼科医がおり、粕屋町には、名医の高場順正(?~1686年)が在住していたと記されています。
順正は、元々は高場進士兵衛(たかば・ししべい)と名のり、熊本県天草地方の寺沢家に仕えていた武士だったようですが、寺沢家がほろび、浪人となり各地を転々とした後、内橋村に住むようになりました。
眼科の治療法を学んだ進士兵衛は、内橋に落ち着くと、順正と名を変え、医者となりました。うでがすぐれ、評判になり、有名な名医をたくさん育てました。
江戸時代から明治にかけての内橋村には「眼療宿場」(がんりょうしゅくば)と呼ばれる宿がたくさんあり、眼の治りょうに訪れる人々が絶えなかったということです。

【近隣の史跡】熊野神社 等

 

【最寄駅】JR伊賀駅より約1.9km[徒歩約30分]
(間に西鉄バス路線あり[戸原⇔内橋間])
※戸原バス停⇔伊賀駅間:約0.7km[徒歩約10分]
注意)バスをご利用の場合は本数が少ないため事前にご確認ください
【バス停】西鉄内橋バス停より約0.3km[徒歩約5分]
史跡からの最寄りの駅・バス停までの経路図(PDF形式:492KB)

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万葉歌碑(まんようかひ)のイメージ

万葉歌碑(まんようかひ)

乙仲原西区の日守八幡宮には奈良時代「夷守駅」(ひまもり或いはひなもりえき)が置かれていたと推定されています。
現在この場所に次のような歌碑が建てられています。
草枕、旅行く君を愛しみ
(くさまくら、たびいくきみをいつくしみ)
たぐいてぞ来し、志珂の濱辺を
(たぐいてぞきし、しかのはまべを)
「旅に出ようとしているあなたがたとお別れするのがつらくて、志珂の浜辺を歩いて、とうとうここまで来てしまいました。」という歌です。
この歌は当時、太宰府に赴任していた大伴百代(おおとも・ももよ)が呼んだ歌で、長官であった大伴旅人(おおとも・たびと)の病気を見舞いに訪れた弟の稲公(いなこう)とおいの胡麿(こまろ)が都へ返る際に、この夷守の駅で別れを惜しみこの歌をよんだとされています。
なお、現在の歌碑は、元福岡県知事 亀井光氏揮毫によるものです。

【近隣の史跡】柚須のゴヨウマツ 等

 

【最寄駅】JR柚須駅より約0.9km[徒歩約14分]
【バス停】西鉄四軒家バス停より約0.8km[徒歩約12分]
(最短約0.7km[徒歩約10分]※住居の並びを通る場合)
史跡からの最寄りの駅・バス停までの経路図(PDF形式:366KB)

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長者原古戦場(ちょうじゃばるこせんじょう)の碑ノイメージ

長者原古戦場(ちょうじゃばるこせんじょう)の碑

長戸区には、長者原古戦場の碑が建てられています。
足利尊氏(あしかが・たかうじ)が光明(こうみょう)天皇(北朝)を立て、京都へ入り、征夷大将軍に任命された1338年以後も、後醍醐(ごだいご)天皇(南朝)と対立しながら、2つの朝廷が存在する南北朝の時代が約60年も続きました。
次第に尊氏方では内部争いが始まり、弟の直義(なおよし)や家臣・子どもを巻き込んだ争いになりました。
九州では3つの勢力が戦いを続け、長者原一帯でも1362年、南朝方の菊池軍と北朝方の少弐軍とが争い、菊池軍が勝利をおさめました。
この長者原の戦いは、九州における南朝方の勢力を強める戦いとして、南北朝時代の中でもたいへん重要な戦いであったと言われています。

【近隣の史跡】伊賀薬師堂 等

 

【最寄駅】JR長者原駅より約0.8km[徒歩約15分]
【バス停】西鉄長者原バス停より約0.6km[徒歩約10分]
史跡からの最寄りの駅・バス停までの経路図(PDF形式:218KB)

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駕輿丁池遺跡群(かよちょういけ、いせきぐん)のイメージ

駕輿丁池遺跡群(かよちょういけ、いせきぐん)

駕輿丁区を中心に広がる駕輿丁池は、昔は、筑前三大池の一つに数えられ、江戸時代元禄10年(1697年)郡奉行川村茂右衛門によって人工ちくていされ、現在の形になったと古文書には記録されています。
しかし、池の底からは旧石器時代(約2万年前)の石器や縄文時代の石器など、様々な遺物が採集できることから、かなり古い時代から粕屋町に人々が住み始めたこん跡が発見できる遺跡群でもあります。
池の東側には、奈良~平安時代にかけて寺院がそう建されていたと見られ、現在は「駕輿丁廃寺」(かよいちょう、はいじ)と呼ばれています。
具体的な建物の配置などは判っていませんが、中央公民館に保管されている石からは、約22メートル近くの塔が建っていたのではないかと推定されています。

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お問い合わせ

粕屋町立歴史資料館(粕屋フォーラム2階)
〒811-2314 福岡県糟屋郡粕屋町若宮1丁目1-1
電話:092-939-2984
FAX:092-938-0733
開館時間:火曜日から日曜日の午前10時から午後5時まで(ただし、祝日、休日の翌日、毎月最終木曜日、特別整理期間を除く)

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